新橋花柳界と東をどりの変遷

新橋が花柳界として発祥したのは幕末、黒船の来航から暫くした安政五年です。西国の雄藩、薩摩、長州と徳川幕府の間には方針の違いから軋轢が生じます。徳川贔屓の江戸の中、新興新橋が勤王の志士を迎えました。直ぐに迎えた明治維新で、彼らは政府の中枢となります。明治は近代化を国是とした時代。初代総理の伊藤博文卿は公務を終えて、夜ごと新喜楽の座敷に各界から人をに集めました。諸君の分野では明日の日本とは何ぞやと議論を重ねました。新橋は新時代の社交場となり、一流の顧客を迎えるにあたり技芸の一流を街の方針としました。芸能各流の一流の指導者を招いて研鑽に励みます。当時の京阪には芸者衆の歌舞練場が在りました。芸処と呼ばれるようになる大正十四年、倣って芸者衆の劇場、新橋演舞場を建設します。最先端、レンガ造りの劇場の柿落し公演が初回の東をどりでした。

戦火に焼けた演舞場は昭和二十三年春に再建されます。戦前の東をどりはそれぞれに稽古を積んだ踊りを見せる発表会でした。芸者として人間国宝となる当時の篠原頭取は開幕から終演までをデザインする公演に作り替えました。その中心が舞踊劇、川端康成、谷崎潤一郎、吉川英治など、文豪に戯曲を依頼、舞台美術は横山大観、竹内栖鳳、前田青邨という画壇を代表する作家が手掛けました。新橋花柳界の人脈と何より戦後復興を願う文化人の心意気で東をどりは復活します。舞踊の名手、まり千代が舞踊劇で見せた美しい男姿が話題を呼び、公演は大成功を収めます。楽屋口にはブロマイドを手にした女学生が出待ちの人垣となる光景をつくりました。

街の発祥百五十年を迎えた八十四回の東をどりから料亭と芸者の魅力を伝える催しへと姿を替えました。格調高きの序幕と転換する二幕の舞台構成、幕間には料亭の食と美酒でお迎えします。芸の新橋を支えるのは稽古に励む街の風、コロナ禍には映像と踊りを繋ぐ公演に挑み、今回は復活を期して疫病退散の願掛けるお祭りに挑みます。一見お断りの花柳界、そこに在る日本の綺麗、素敵な日本を感じる文化の入口となるよう東をどりは歩みを進めます。